中学生の比較文章です

澁谷恭正に対する死刑判決を求めます。

                                 

千葉県松戸市において、人間の皮を被った悪魔である澁谷恭正は、本来小学生を守るべき立場である保護者会の会長という立場を悪用し、当時小学3年生であったレェ・リンさんを拉致して拷問にも等しいレイプに相当すると思われる強制猥褻行為を行い、自らの性欲が満たされたら平然とリンさんの首をネクタイで絞めて窒息死させて殺害し、リンさんのかけがえのない生命を奪ったあとも何らためらうことなくリンさんの所持品や遺体を千葉県我孫子市まで運んで遺棄するという、非常に残虐な行為を行いました。

これほどまでに残虐かつ凶悪な犯罪を犯してから4年近くの時が経過したにも関わらず、澁谷恭正は未だに罪と向き合おうともせず、自らが無罪になって釈放されるための計画を立てています。

私は、児童の信頼を逆手に取った、稀にみる残虐な凶悪犯罪を犯した澁谷恭正を許すことができません。無残にもかけがえのない生命を奪われたリンさんの祖国であるベトナムで、澁谷恭正が犯した罪とおなじような罪を犯せば、法律に基づいて死刑に処され生命を絶たれるのが当たり前です。

しかし、この日本という国には「永山基準」という、死刑かそうでないかをきめるための基準があり、この基準により、ベトナムと比べ死刑の適用には慎重な姿勢がとられています。

「永山基準」では、以下の9項目が特に重視されています。

①    犯罪の性質

②    犯罪(特に殺害)の動機

③    犯行(特に殺害)の計画性、執拗性、残虐性

④    被害結果の重大性(特に殺害された被害者の数)

⑤    ご遺族の方々の処罰感情、被害感情(犯人が複数の罪を犯して生存者も出た場合は生存者の処罰感情や被害感情も考慮されます)

⑥    犯行が社会に与えた影響

⑦    犯人の年齢

⑧    前科(特に殺人の前科があると量刑が非常に重くなります)

⑨    犯行後の情状(逮捕されるまで何をしていたのか、逮捕後に反省はあったのかなどです)

このうち、死刑か否かを決めるにあたって最も大きいのが、④の「結果の重大性」のうちの「殺害された被害者の数」です。たとえば前科の無い者が金銭欲に基づく強盗殺人を犯した場合、殺害された被害者の数が1人だと無期懲役(刑期が終生に渡る懲役刑)になることが多く死刑は非常に例外的であり、2人の場合は他の項目により死刑と無期懲役に分かれることが多く、3人以上の場合はほとんどの事例で死刑になっています。

しかし、殺害された被害者の数が1人であっても、死刑がやむを得ない事案があることは言うまでもありません。実際に殺害された被害者の数が1人であっても死刑に処せられた事案もあります。

私は、澁谷恭正はその、「殺害された被害者の数が1人で、死刑がやむを得ない事案」に該当すると思っています。そこで、「永山基準」ができて以降、殺害された被害者の数が1人で最高裁判所が死刑を確定させた事件と比較してみましょう。

「名古屋市女子大生誘拐殺人事件」という事件がありました。犯人の男・木村修治は、愛人との不倫やギャンブルなどのために、自業自得である借金をたくさん抱え、借金を返済するためにa大学の女子大生Aを言葉巧みに誘拐して首を絞めて殺害しAの生存を装ってAの家族に身代金を要求する計画を立てました。そして木村は、Aが英語の家庭教師の働き口を求めていることにつけこみ、Aを計画通りに誘拐して、あらかじめ購入していたロープでAの頸部を絞め、Aを窒息死させて殺害し、Aの生存を装ってAの親族に3000万円の身代金を要求しながらAの死体を木曽川に遺棄しました。身代金の要求には失敗したものの、警察官たちを欺いて数日間逃亡しました。そして数日間の逃亡の末、木村は殺人罪、身代金目的拐取罪、拐取者身代金要求罪、死体遺棄罪で逮捕され、最終的に起訴されました。

この事件では悪辣な犯行態様には慄然としましたが、「真摯であるかどうかは疑問だが罪を全面的に認め反省の弁を述べている」「窃盗1件以外に前科はない」「目的である身代金の受け取りは未遂に終わっている」「自業自得な面もあるとはいえ自暴自棄になるに至る経緯もあった」などの有利な事情が認められるにも関わらず、木村は最高裁判所において死刑に処せられました。

木村修治と澁谷恭正の犯情を比較してみます。

まず①の「犯罪の性質」は、自らの利欲的な目的による、首を絞める殺害道具を用いた殺人であることはどちらも同じですが、澁谷はリンさんの自らへの信頼をも逆手に取っているため、澁谷の方が犯情が重いと思われます。

②の「犯罪の動機」については、木村は身代金を目的、澁谷は自らの性欲を満たすことを目的としています。裁判所では性犯罪は強盗より罪が軽いとされることもありますが、私たち一般国民の感覚では逆です。性犯罪はつまらない欲望のために他人の人生を大きく狂わせる犯罪です。性犯罪を伴う殺人については、強盗殺人や保険金・身代金を目的とした犯罪よりも重い刑罰を科せられるべきです。

③の「犯行の態様」については、計画性や執拗性や残虐性が主な争点となります。計画性に関しては、木村はあらかじめ身代金を要求する計画をたてていただけでなく、Aを殺害するためのロープを購入していて、澁谷は24日に見守りに参加しないとあらかじめ伝えていたこと、いつもは見守り活動と称して探索活動をしていたことから、リンさんを誘拐・レイプ・拷問するための抜け道を探していたことは明らかであり、殺害に関しても、死体を遺棄して警察の捜査をかく乱させていた、つまりあわてていないという殺人後の澁谷の状況から、誘拐および猥褻行為と同様の計画性があるのだと思われます。この点ではどちらもほぼ同じでしょう。執拗性と残虐性に関しては、木村の場合は、被害者への攻撃行為はロープでの絞首だけだったのに対し、澁谷の場合は、被害者の身体を自分の都合の良いように蹂躙して拷問してから絞首をしました。この点では澁谷の方が犯情がはるかに重いと思われます。

④の結果の重大性についてですが、木村の方ではかけがえのないAの生命が失われ、澁谷の方はかけがえのないリンさんの生命が失われただけでなく、リンさんに重大な性的被害が生じています。この点でも澁谷の方が犯情が重いと思われます。

⑤の「ご遺族の被害感情・処罰感情」については、Aのご遺族もリンさんのご遺族もそれぞれの加害者を当然ながら赦すことはなく、加害者が極刑に処せられることを切望しているため、木村も澁谷も犯情に軽重はありません。⑥の「社会的影響」については、木村についても身代金目的誘拐を伴う殺人として社会に与えた影響は極めて大きいですが、澁谷については法、そして子供たちを守るべき立場にいながらリンさんを惨殺したものであり、澁谷の犯行のせいで子供たちを守る者たちにたいする社会的な評価が大きく下がっただけでなく、子供たちが大人を信用できない状況に陥ってしまっているほどであるため、澁谷の方が犯情が非常に重いでしょう。

⑦の犯人の年齢については、木村も澁谷も死刑適用可能年齢となる18歳を当然ながら上回っているため、どちらも犯情に軽重はないでしょう。

⑧    の前科については、木村は窃盗罪の前科1犯だけであり、澁谷は罰金50万円の前科(リンさんのご遺族の話によると罪名は不明)が1犯だけであり、犯情に軽重はないでしょう

⑨    の犯行後の情状については、木村は証拠隠滅工作のためAの死体を遺棄しながら警察を欺いて数日間逃亡し、澁谷はリンさんの死体を遺棄、それも木村よりも徹底的に、リンさんの所持品をも各所に遺棄しただけでなく、木村と違って事件から4年近くがたっても罪も認めず慰謝の措置も講じずそればかりかご遺族の怒りを増幅させる虚飾に満ちた謝罪をも行っていて、澁谷の方が犯情が非常に重いです。

以上の事情を総合考慮すると、木村修治よりも澁谷恭正の方が犯情が格段に重いでしょう。重大凶悪な強制わいせつ致死、殺人等の犯行をおかしながら否認を続ける澁谷の態度は、澁谷の社会における再犯の恐れを如実に示すものであり、澁谷の矯正はもはや不可能と断ぜざるを得ません。

そうすると、澁谷恭正に有利な事情を最大限に考慮しても、澁谷の罪責はあまりにも重大すぎるため、澁谷恭正に対しては、死刑以外の選択肢はないものと言わざるを得ません。

名古屋市女子大生誘拐殺人事件の比較 P4(死刑執行)

死刑執行
1995年12月21日午前、木村は収監先の名古屋拘置所にて、法務省(法務大臣:宮澤弘)の発した死刑執行命令により、死刑を執行された[報道 1]。45歳没[報道 1]。同日には東京拘置所・福岡拘置所でも、それぞれ1人ずつ死刑囚に対し、刑が執行された[報道 1]。

木村の処刑を知ったA子の父親は、『中日新聞』記者に対し「もっと早く執行すべきだった」「死刑廃止論は出鱈目だ。死刑制度がある以上、死刑は確定から速やかに執行すべきだ」と思いを吐露した[報道 1]。その上で、成人式の時に買った振袖などを処分した以外、娘の部屋は事件当時のまま、趣味の登山用品も大切に保管していることについて触れ「娘が生きていれば、今頃は孫を連れて遊びに来ていただろう」と無念の思いを語った[報道 1]。そして、報道陣に対しては「木村も誰かに相談していれば、娘を殺さずに済んだ。犯罪を犯せば、被害者本人だけでなく、自分や被害者の親兄弟、親類にまで物凄く迷惑がかかる。犯罪に走る前にそれを考えなければいけない。悩みを一人で考えず、誰かに相談すべきだ」と語った[報道 1]。

一方、死刑廃止を求める市民団体「死刑廃止フォーラム inなごや」は23日、拘置所近くにある名古屋市東区白壁の名古屋聖マルコ教会で会見し、宮澤法相と名古屋拘置所長宛てに、それぞれ抗議文を送付することを明らかにした[報道 21]。抗議文の内容は、木村が獄外との通信を巡る訴訟を継続中だったこと、生きて償うことを願って恩赦出願中だったことを挙げた上で「これらに決着を付けずに処刑したことは、人間の尊厳への冒涜だ」「死刑によって償いの機会を永遠に奪うことがあってはならない」というものだった[報道 21]。教会ではこの日の午後、各地の死刑廃止運動関係者ら約70人が参列し、木村の葬儀が営まれた。

名古屋市女子大生誘拐殺人事件の比較 P3(刑事裁判)

刑事裁判

第一審(名古屋地裁)
木村の初公判は1981年5月15日、名古屋地方裁判所刑事第3部(塩見秀則裁判長)で開かれた[報道 6]。注目された罪状認否で、木村は「身代金を取ることは12月4日の時点で断念していた」と供述したが、それ以外は起訴事実を全面的に認めた[報道 6]。冒頭陳述で検察側は、木村が映画『天国と地獄』をヒントにした上で、計画が失敗しないように、初めからA子を殺すつもりで誘拐したことを明らかにした[報道 6]。木村の捜査段階での供述態度や、同月5日にA子の遺体が発見されたことなどから、木村が犯行を認めることは確実視されていたが、法廷で犯行を認めたことから、今後の焦点は、検察側から明らかにされる、犯行の詳しい動機・方法などに移り、審理はかなり早く進む見通しが立った[報道 6]。

その後、刑事裁判の争点は情状面での立証に移り、検察側はA子の父親・友人を、弁護側は木村の母親・友人を、それぞれ情状証人に申請した[報道 7]。12月の公判で、木村は「被害者遺族の方の気持ちが少しでも晴れるなら、また、私の母や家族に対する世間の冷たい目が多少とも緩和されるなら、命が惜しいとは思いません。私が死刑になるのが一番いいのではないかと思います」と述べた[報道 8]。第9回公判では、被害者遺族であるA子の父親が、検察側の情状証人として出廷し、「親として絶対許すことはできません。死刑を望みます」と述べた[報道 7]。

1981年12月24日、名古屋地裁刑事第3部で第10回公判(論告求刑公判)が開かれた[報道 7]。検察側は「社会全体に戦いを挑んだ、わが国史上まれに見る、大胆、残忍、卑劣な犯行で、天人とも許しがたい。被告人の反社会的性格に改善の余地はない」として、木村に死刑を求刑した[報道 7]。弁護側の最終弁論は翌1982年(昭和57年)2月2日に開かれた[報道 7]。

1982年3月23日に判決公判が開かれ、名古屋地裁刑事第3部(塩見秀則裁判長)は検察側の求刑通り、木村に死刑判決を言い渡した[報道 9][報道 3][判決文 1]。

木村は判決後も、前述のように死刑を受け入れる意思が固かったが、弁護人らが控訴するように説得した[報道 8]。その後、木村の弁護人は控訴期限前日の4月5日付で、量刑不当を理由に名古屋高等裁判所に控訴した[報道 8]。

控訴審(名古屋高裁)
1982年10月18日、名古屋高等裁判所で控訴審初公判が開かれた[報道 10]。控訴審でも、木村は起訴事実を全面的に認めたため、控訴審はわずか3カ月で結審した[報道 10][報道 11]。第一審も10カ月のスピード審理だったため、事実審はわずか1年弱で結審した[報道 11]。

控訴審で弁護側は「木村は逮捕後、率直に犯行を認め、拘置所内でも毎日、被害者の冥福を祈るなど、深く反省している。永山則夫連続射殺事件など、他の重罪事件でも、控訴審で死刑判決が破棄されて無期懲役になった例があり、刑の均衡の上から、死刑判決を破棄して無期懲役を適用するのが相当である」と主張していた[報道 11]。

1983年(昭和58年)1月26日、名古屋高裁刑事第2部(村上悦雄裁判長)は、第一審の死刑判決を支持し、木村の控訴を棄却する判決を言い渡した[報道 10]

[報道 11]。

木村は判決を不服として、同日午後に最高裁判所に上告した[報道 12]。弁護人は判決後、名古屋拘置所で木村と面会し、「控訴審判決は死刑制度の適否などについて判断しておらず、弁護人としては不服である。量刑について最高裁が同じ判断を示すとは限らず、人生を最後まで大切にする意味でも上告すべきだ」と説得し、木村はこれに同意した[報道 12]。

上告審(最高裁)
1987年(昭和62年)6月26日までに、最高裁判所第一小法廷(大内恒夫裁判長)は、木村への上告審判決公判を7月9日午前10時半から開廷することを指定し、関係者に通知した[報道 13]。

7月9日、最高裁第一小法廷(大内恒夫裁判長)は、一・二審の死刑判決を支持し、木村の上告を棄却する判決を言い渡した[報道 4]。これにより、木村の死刑判決が確定することとなった[報道 4]。

木村とその弁護団はこの判決を不服として、本来は字句・計算の間違いなどを訂正するのに用いる判決訂正申立書を[注釈 1]、犯行の事実認定のうち、情状に関する事実誤認・死刑制度の是非について、これまでと同じ主張をまとめた上で、最高裁第一小法廷(大内恒夫裁判長)に提出し、死刑判決の破棄を訴えた[報道 5]。しかしこの申し立ては8月6日までに棄却決定がなされたため、木村の死刑判決が確定した[報道 5]。身代金目的誘拐殺人での死刑判決確定は戦後8件目だった。

名古屋市女子大生誘拐殺人事件の比較 P2(捜査)

捜査
事件当日の2日夜、A子宅に、後に木村と判明する男から「娘を誘拐した。現金3000万円用意しろ。警察に言うと娘は生きて帰れないぞ」との脅迫電話があったことから、愛知県警察捜査一課・港警察署は、身代金目的誘拐事件とみて、特別捜査本部を設置し、極秘捜査を開始した[報道 2]。途中からはA子の親族を装った捜査員が電話で交渉に当たるなど、警察はA子の安全を最優先に考えつつ、懸命の捜査を続けた一方、A子の家族も捜査に協力し、失踪現場の近鉄戸田駅付近で、A子の顔写真などを印刷した、目撃者捜しの新聞折り込みチラシを計9000枚余り配布した[報道 2]。しかし、6日夜から犯人からの連絡が途絶え、わずかな遺留品からも手掛かりが得られない上、事件から20日以上経過しても有力な情報提供は得られなかった[報道 2]。そのため、事件発生から25日目の12月26日午前7時、愛知県警はA子の家族の了解を得て、被害者の安否・犯人とも不明のままの誘拐事件としては異例の公開捜査に踏み切った[報道 2]。特捜本部は、犯人が名古屋市内のほか、三重県桑名市周辺からも電話してきていることなどから、隣接する三重・岐阜両県警をはじめ、警視庁など10都府県警の応援を求め、広域捜査態勢を取り、被害者の救出、犯人の割り出し・逮捕に全力を挙げた[報道 2]。

最初の脅迫電話が2日午後8時15分頃にかかってきた直後、家族からの110番通報で捜査を始めた愛知県警は、犯人は「A子宅に多額の預金があるのを知っている」「A子が10月6日、『中日新聞』読者投稿欄を通じて、英語の家庭教師のアルバイトを希望した事実も調べてある」「名古屋市港区・海部郡など、愛知県尾張南西部の地理に明るい」「名古屋弁、岐阜弁、三重弁、関西弁といった方言を交えた言葉遣いをする」などの点を確認した[報道 2]。これらの点から、愛知県警は犯人像を「愛知県尾張周辺出身、A子宅の事情を知る30歳代から40歳代の者」と見た[報道 2]。また、犯人の動き、大掛かりな犯行計画などから、共犯者がいる複数犯の可能性も想定していたため、この段階では木村の単独犯であることは把握できていなかった[報道 2]。それまでの捜査では、2日午後7時10分過ぎ、戸田駅から北約300mの路上に白い乗用車が停車し、体格の良い男が車内に若い女性を引きずり込み、女性が悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、車は同駅方面に走り去ったという光景を、近隣住民の主婦が目撃していた[報道 2]。主婦は車から離れた距離から目撃していたため、この女性がA子とは確認できなかったが、犯人との待ち合わせ時間に近いことから、特捜本部は事件との関連性を調べた[報道 2]。また、戸田駅周辺では事件直前、大学生2,3人の自宅に「英語教材のことで話がある」との不審な電話がかかり、うち1人は同駅に呼び出されたことも判明した[報道 2]。これらの手口は、A子を誘い出した手口と酷似していたため、特捜本部は英語教材業界の聞き込み捜査も進めた[報道 2]。犯人が要求してきた3000万円は、2年前の1978年(昭和53年)5月25日、A子の父親が運転し、A子とその母親(当時44歳、小学校教諭)が同乗していた乗用車が、別の乗用車と衝突し、約1m下の農業用水に転落、A子の母親が水死した交通死亡事故を受け、翌1979年(昭和54年)6月,7月に、自動車賠償責任保険(自賠責保険)などから支払われた保険金と同じ額だった[報道 2]。A子の父親は、同じく小学校の教諭だった愛妻の死という「悲劇のお金」に手を付けようとせず、事件まで銀行に預けたままだった[報道 2]。

木村は事件発生から50日目の、翌1981年(昭和56年)1月20日に逮捕され、同年5月に被害者の遺体が発見された[報道 4]。

名古屋市女子大生誘拐殺人事件の比較 P1(事件の経緯)

名古屋市女子大生誘拐殺人事件(なごやし じょしだいせい ゆうかいさつじんじけん)は、1980年(昭和55年)12月2日夕方、愛知県名古屋市在住の女子大学生(当時22歳、金城学院大学3年生)が、元寿司店員の男・木村修治(きむら しゅうじ)に誘拐され[報道 2]、殺害された身代金誘拐殺人事件である。

名古屋市女子大生誘拐殺人事件の概要:
場所 日本
愛知県名古屋市

日付 1980年(昭和55年)12月2日

概要 男が愛人との生活費・ギャンブルで多額の借金を抱えたことから、身代金目的で女子大生を誘拐し、首を絞めて殺害、遺体を木曽川に遺棄した。

攻撃側人数 1人
死亡者 女子大生(当時22歳、金城学院大学3年生)

犯人 木村修治(きむら しゅうじ)
犯行当時30歳の元寿司店員、1950年2月5日生まれ[書籍 1]、1995年12月21日死刑執行、45歳没[書籍 1][報道 1]

対処 逮捕・起訴
刑事訴訟 死刑(執行済み)

管轄 愛知県警察

死刑囚(木村修治)

本事件の犯人で、刑事裁判で死刑が確定、執行された元死刑囚・木村修治は、1950年(昭和25年)2月5日[書籍 1]、名古屋市内で次男として生まれた[判決文 1]。1995年12月21日、法務省(法務大臣:宮澤弘)の死刑執行命令により、収監先の名古屋拘置所で死刑が執行された(45歳没)

事件直前
1980年11月25日、多額の借金を抱えて追い詰められていた木村は、愛人宅で読んだ『中日新聞』の告知欄に、金城学院大学の大学生が家庭教師の働き口を求める記事が掲載されているのを見て、同学に通う学生は資産家の娘であることを知っていたことや、まとまった金が欲しいと常に考えていたことから、同学の大学生を誘拐し、その親から身代金を奪い取り、借金の返済に充てることを思いついた[判決文 1]。木村はその記事を掲載した女子大生宅の電話番号を調べ、同月28日朝、名古屋市内の公衆電話から同宅に電話し、応対に出た女子大生を誘拐しようと考えつつ、家庭教師の依頼を装って女子大生を呼び出そうとしたが、その女子大生からは「距離が遠すぎる」という理由で断られた[判決文 1]。そのため木村は、家庭教師の依頼に応じてくる別の同学生を誘拐すべく、直後に愛人宅から、同様の告知板欄が掲載されている『中日新聞』数日分とともに、電話帳・名古屋市区分地図を借り、自宅の寿司屋に持ち帰った[判決文 1]。

木村は翌11月29日夕方、寿司屋で仕事をしていたところ、競輪・競馬のノミ行為を申し込んで約240万円負け、借金した相手である、ノミ行為の胴元の男から、電話で借金の返済を催促された[判決文 1]。さらに同日午後9時頃には、男が多数の仲間を連れて寿司屋に押しかけ、木村に支払いを強く要求したため、木村はその場で、当てもないまま「12月3日までには支払う」と約束することを余儀なくされた[判決文 1]。また、木村はこの他にも、別のノミ行為の胴元、大口の借金先からも、12月初めには借金を返済するよう約束しており、早急に約500万円ほどの金を工面する必要に迫られていたことから、改めて「金城学院大学の女子大生を誘拐して、その身内から身代金を奪おう」と決意した[判決文 1]。

以前のターゲットに電話した際、闇雲に電話をしたことから断られていたため、木村は誘拐方法・その後の処置などを考えた[判決文 1]。その結果、以前観たことのある映画『天国と地獄』や、高速道路を利用して身代金を奪った事件があることなどを思い出した木村は、それらを参考にしつつ、「同学の学生に『家庭教師を依頼したい』と嘘の電話をかけ、適当な待ち合わせ場所を決め、自分はその付近に住んでいることにして誘い出し、自宅に案内する名目で自動車に乗せる」、「その後はすぐに脅迫電話をかける必要がある」、「後日の逮捕を免れるため、直ちに被害者の首を絞めて殺害し、遺体は発見されないように川に沈める」、「身代金は高速道路の高架上から下に投下させ、安全に奪い取る」などの犯行手口を考えた。

事件の経緯
そして12月1日午後、寿司屋店内にいた木村は、以前持ち帰った『中日新聞』告知板欄から、英語の家庭教師の働き口を求めていた、名古屋市港区在住の金城学院大学文学部英文科3年生の被害者A子(事件当時22歳)を選び出し、誘拐・殺害の標的に決めた上、電話帳などでA子の父親(同市内の小学校教諭)宅の電話番号を捜し出し、午後6時頃、A子方に電話した[判決文 1]。その際、木村はA子宅の電話番号を調べようと、A子一家の親類・A子宅の大家に電話したほか、東名阪自動車道から現金投下の手段を用意するなど、周到な犯行計画を立てていた[報道 2]。

電話の応対に出たA子に対し、木村は「堀江」という偽名を使いつつ、自己の身分を「A子宅近くに住む中学1年生の父親」と偽った上で、「子どもの英語の家庭教師を依頼したい」と嘘を言い、これを承諾したA子と、翌2日午後6時15分ごろ、A子宅近くの中川区の近鉄名古屋線戸田駅前の公衆電話ボックスで会う約束を取り付けた[判決文 1]。

翌2日、木村は寿司店を休業し、愛人宅近くの名東区内にある雑貨屋で、A子を絞殺するのに使用するロープ2本を購入したが、一方で殺人への恐怖から迷いも生じ、「A子を殺害せずに金を作りたい」とも考えた[判決文 1]。同日午後3時過ぎごろ、木村は同市中村区の名古屋競輪場に出掛け、手持ちの金約20万円をつぎ込み、最後の賭けを試みたものの、すべて負けた。このため、木村は「計画通りA子を誘拐して身代金を得るしかない」と改めて決意し、競輪場を出た後、自分の車である日産・バネットを運転し、戸田駅前の公衆電話ボックス付近の下見をした[判決文 1]。さらに、その付近の農道を走り回り、付近に民家がないことを確かめた木村は、殺害場所をこの農道上に決め、その後は中川区内のカー用品店・スーパーマーケットで、遺体の梱包用のレジャーシート・ロープなどを購入し、あらかじめ雑貨屋で購入していたロープを、車の運転席ドアにあるドアポケットに入れるなどして、犯行の準備を整えた[判決文 1]。その後、待ち合わせ時間まで付近のパチンコ店で時間を潰した木村は、午後6時15分頃、自車を運転して、戸田駅駅舎脇に設置されている公衆電話ボックス前に、約束通りA子が来ているのを確認した上で、同駅から南に約50mの駐車場入り口付近に車を駐車し、助手席側ドアをロックし、車内からドアを開けられないように細工をした[判決文 1]。

木村は徒歩で同駅前に赴き、A子に「A子さんですか、堀江です。車で来ていますから車に乗ってください。終わったらまたここまで送ってきますから」と嘘をつき、その言葉を信じたA子を駐車場まで誘い出し、助手席に乗車させた[判決文 1]。A子が車外に脱出することを困難な支配下に置いた上で、木村は車を蟹江町方面に走行させ、A子の安否を憂慮する近親者らから身代金を得る目的での誘拐を遂げた(身の代金目的拐取罪)[判決文 1]。

木村は誘拐したA子を、その意図に気付かせることなく、あらかじめ決めておいた殺害場所に連れて行くため「こちらからでも行けるのですか」などと不審に思うA子に対し、「国道に出ていけますよ」と騙して安心させ、午後6時25分頃、誘拐現場の駐車場から南西約800m離れた中川区富田町内の、民家のない農道上で停車した[判決文 1]。木村はそのまま、「ちょっと待ってくださいよ」などとA子に声をかけつつ、運転席のドアポケットに隠していたロープを引っ張り出して両手に握り、いきなり助手席に座っていたA子の首を絞め、窒息死させた(殺人罪)[判決文 1]。

木村はその後、A子の遺体を助手席床上に降ろし、自分のジャンパーをかぶせて隠蔽工作した上で車を走らせ、遺体を包むのに適当な場所を探して走り回った[判決文 1]。午後7時40分ごろ、木村は海部郡立田村(現・愛西市)内で、A子の遺体を海老型に折り曲げてレジャーシートで包み、準備したロープの残りで十文字に縛って梱包した遺体を、車の後部トランクに積み込み、積み荷の発泡スチロールの魚箱で隠し、翌3日はそのままその車を運転し、鮮魚の配達の仕事をしつつ、A子の親に電話をかけて身代金を要求した[判決文 1]。殺害当日の2日午後8時15分、木村はA子宅に最初の電話をかけ、電話に出たA子の弟・父親らに対し「あんたのところの娘を誘拐した。明日までに3,000万円用意しろ。警察に連絡したら娘を殺す」と脅した[判決文 1][報道 2]。翌3日夕方、木村はA子宅に「西尾張中央道を一宮方面に向かうと『X』という喫茶店があるから、そこで待っていろ。そこに電話する」と電話し、A子の家族を蟹江町内の喫茶店Xに向かわせた[判決文 1][報道 2]。さらに、木村はA子の父親に身代金を持たせ、連絡場所に指定して呼び出した喫茶店Xにも電話し、「今からそこを出て、東名阪自動車道に入り、大阪方面(下り線)を走行すると、2つ目の公衆電話ボックスがある、その中に紙を書いておいてある。その通りにせよ」と、身代金の受け渡し日時、場所、方法などを指示した(拐取者身の代金要求罪)[判決文 1][報道 2]。A子の父親は、預金先の銀行数か所を回って集めた3000万円のうち、1000万円をカバンに詰め、義理の兄を装って捜査に当たっていた愛知県警察警部とともに、喫茶店Xを出て、東名阪道下り線(大阪方面)を走行するが、いったんは非常電話ボックスを誤って見過ごした[報道 2]。その後、2人は再び道を戻って非常電話ボックスを発見し、その中のメモに「ココカラカネヲシタヘオトセ ゴザイショサービスエリア マデイケ A子(被害者の実名)イク」などとあったが、後述のように捜査を開始していた特別捜査本部は金の投下をためらったため、犯人との接触の機会を失った[判決文 1][報道 2]。またこれにより、高速道路から身代金を投下させ、入手しようと試みた木村の計画は失敗に終わった[判決文 1]。2回目の指示は同夜にあり、今度はA子の弟(当時18歳の予備校生)を持参人に指名した木村は「A子宅近くの喫茶店Y前にタクシーを回すので、それに乗って中川区内のレストランZ前に来い」と要求した[報道 2]。途中から電話交渉を担当した義兄役の警部はこれを拒否し、会話を引き延ばしていた間、特別捜査本部は電話の逆探知に成功し、その後の電話が中川区内の、国道1号沿いの公衆電話ボックスからかかったことを特定したが、捜査員らが駆け付けた際には既に犯人の姿はなく、わずかの差で取り逃がすこととなった[報道 2]。木村からの電話はそれ以降、発信先は同県津島市内の公衆電話など計9か所から、翌3日午後11時16分頃までに計18回に上っており[判決文 1]、また木村は警察からの逆探知を恐れ、電話を最長でも4分前後で切るという用心深さも見せた[報道 2]。

3日午後3時30分頃、木村はA子の遺体を人目に付きにくい場所に隠そうと考え、三重県桑名郡長島町(現・桑名市)の木曽川河川敷の、芦の茂みの中に遺体を隠した[判決文 1]。しかし翌4日、木村は非常電話の見える場所に向かったところ、捜査用自動車らしき車が2台、東名阪道の方に向かうのを見た[判決文 1]。また、その直後の電話後、身代金受け渡し場所に指定した喫茶店の見える場所にいって様子をうかがっていた際にも、不審な動きをする車がいることに気付き、警察が事件を捜査していることを察知した[判決文 1]。また、自宅に電話したところ、借金先から留守宅に電話をかけられるなどして、多額の借金があることが妻ら親族に発覚した[判決文 1]。また、妻は木村の母親に対し、木村の借金のことを相談したため、木村の母親が自分に会いたがっていることを知った木村は、母と連絡を取り、4日午前10時30分頃に名古屋市内の喫茶店で会ったが、その際に母親から問い詰められ、多額の借金があることを告白せざるを得なくなり、こうなれば妻との離婚の話も出ると考え、直後に蟹江町役場に赴き、離婚届の用紙を手に入れた[判決文 1]。

警察が捜査に乗り出したことを察知した上、多額の借金があることが親族に知れた以上、身代金を入手して借金返済に充てれば、金の出処が疑われると考えた木村は、身代金要求をあきらめ、遺体を木曽川に遺棄しようと考えた[判決文 1]。ちょうど翌5日、木村は母方で妻や、定時制高校以来の親友とともに借金の善後策を協議しており、借金取りから逃れようと、知人のいる四国に逃げることなども考えたが、結論の出ないまま自宅に帰り、四国に行くための電車の時刻を調べようと時刻表を読んでいた[判決文 1]。木村はその際、身代金を日本国有鉄道(現・JR東海)中央本線春日井駅まで持参するように指示し、警察が捜査をしているならばその注意を春日井方面にそらし、その隙に遺体をまったく別方面の木曽川に遺棄しようと思い付いた[判決文 1]。同日午後、木村は自宅近くの公衆電話から計2回、A子宅に電話をかけ、応対した捜査員に対し「名古屋駅まで来て、中央線の5時34分名古屋発多治見行に乗って春日井で降りろ。プラットホームにいてもらえば、A子を一緒に車に乗せて向かう。身代金と引き換えにA子を解放する」などと嘘をつき、捜査員らを春日井方面に向かわせた[判決文 1][報道 2]。A子の父親は、義兄役の警部とともに同駅に向かったが、被害者・犯人ともに姿を見せなかった[報道 2]。その隙に、木村はA子の遺体を木曽川に遺棄することにし、蟹江町内で再梱包用に大きなブルーシートを購入した[判決文 1]。5日午後6時頃、木村は木曽川河川敷の遺体隠匿現場付近の空き地で、ブルーシートでさらに遺体を包み、ロープで縛って再梱包し、車の後部トランクに積み込んだ[判決文 1]。木村は遺体を遺棄する場所を探して走行していた途中、偶然見つけた工事等点滅灯のコンクリート製土台を拾い、遺体に結びつけて重石とした[判決文 1]。そして、東名阪自動車道下り線を走行して木曽川橋上まで遺体を運搬し、後続車両の途切れた4日午後6時35分頃、橋の上から遺体を投げ捨て、約10.8m下を流れる木曽川(水深約3m)に遺棄した(死体遺棄罪)[判決文 1]。その後夜になって、木村は2回A子宅に電話し、自分は春日井駅に行っていなかったにもかかわらず、「なぜ警察に連絡した。刑事が4人もいたぞ」などと詰め寄り、「明日の午前中連絡する」と言い、この日最後の電話を切った[判決文 1]。

5日午後10時40分頃、母方に赴いた木村は、集まった兄や叔父の前で、借金のほぼ全貌を告白し、その際に「借金から逃げるな」と諭されたため、借金取りから逃げるのを断念し、この日は妻の家に泊まった[判決文 1]。翌6日午後6時23分ごろ、木村は妻宅近くの公衆電話から、A子宅に最後の電話をかけ、「車が故障して段取りが狂った」などと言い、今後も連絡を取るかのようにほのめかしつつ、以降連絡を絶った[判決文 1]。なお、木村の借金は、5日夜から翌6日朝にかけ、木村の親族、義父の親族が互いに話し合い、分担して返済されることになった[判決文 1]。

このように、木村は刑事裁判で認定された計18回の電話とは別に、さらにA子宅に対し、4日午後零時58分頃から、6日午後6時23分頃までの計7回、身代金を要求する電話をしたが、これらはいずれも、木村が身代金入手を断念した後の電話であるため、刑事裁判では「身代金要求の事実は認められない」と認定された[判決文 1]。

東京高等裁判所に言いました内容

またもうすぐ26日に来ます。
もう43ヶ月にわって、リンちゃんの遺体が見つけた日です。
2020年10月5日に澁谷恭正殺人が裁判に参加しなかった。原因がはっきりわかりません。
澁谷恭正殺人が目が悪いと言いましたので、今日は動画を作成しました。
澁谷恭正殺人に聞きてください。
私の質問に答えてください。

以下リンクを見てください。

澁谷恭正殺人に対して、比較事件の文章を作成してくれませんか

10月5日に私自分の意見を話す予定です。
私は以下の事件を中心に比較したいと思います。
事件の詳しい内容もPDFファイルにまとめました。
この事件を比較したら、澁谷恭正殺人に似てる。
なので、比較文章を書きたいですが、中々難しいです。皆さんは手伝ってくれませんか。

PDFファイルの内容は全て読んでください。
参考事件の内容:参考事件住田紘一

http://partime.biz/wp/wp-content/uploads/2020/08/%E5%8F%82%E8%80%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E4%BD%8F%E7%94%B0%E7%B4%98%E4%B8%80-1.pdf

後に澁谷恭正殺人関係の記事も公開します。
今準備中です。
目標の文章:
1。今回の裁判員に澁谷恭正殺人に対して、死刑を下がって欲しい。
2。澁谷恭正殺人の弁護士にも納得しないといけません。

出来れば、9月24日まで、提出したいです。
私にメールを送るか。
私のメール:
lethinhatlinhjp@gmail.com

自分で裁判員に提出でも良いです。

ご協力お願いします。

参考事件の比較をしてくれませんか。

今日参考事件の資料を作成しました。

参考事件住田紘一
http://partime.biz/wp/wp-content/uploads/2020/08/%E5%8F%82%E8%80%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E4%BD%8F%E7%94%B0%E7%B4%98%E4%B8%80-1.pdf

課題があります。
みなさんにお願いしたい事があります。
この事件と澁谷恭正殺人の内容を比較して、東京高等裁判所に提出したいです。
目標:
1。似てる事を比較する
2。澁谷恭正殺人に対してこの事件と比較したら、どんな刑罰を下がる良いでしょうか。
出来れば、文章を作成してくれませんか。
文章は私のメールに送信でも良いです。
又は東京高等裁判所の澁谷恭正殺人の担当者に提出でも良いです。
私のメール: lethinhatlinhjp@gmail.com

ご協力お願いします。

特に弁護士を勉強している方、裁判員になりたい方、小弁論として、弁論してくれませんか。

出来れば、2020年9月24日までに完了したいです。

 

よろしくお願いします。参考事件住田紘一