刑事裁判
第一審(名古屋地裁)
木村の初公判は1981年5月15日、名古屋地方裁判所刑事第3部(塩見秀則裁判長)で開かれた[報道 6]。注目された罪状認否で、木村は「身代金を取ることは12月4日の時点で断念していた」と供述したが、それ以外は起訴事実を全面的に認めた[報道 6]。冒頭陳述で検察側は、木村が映画『天国と地獄』をヒントにした上で、計画が失敗しないように、初めからA子を殺すつもりで誘拐したことを明らかにした[報道 6]。木村の捜査段階での供述態度や、同月5日にA子の遺体が発見されたことなどから、木村が犯行を認めることは確実視されていたが、法廷で犯行を認めたことから、今後の焦点は、検察側から明らかにされる、犯行の詳しい動機・方法などに移り、審理はかなり早く進む見通しが立った[報道 6]。
その後、刑事裁判の争点は情状面での立証に移り、検察側はA子の父親・友人を、弁護側は木村の母親・友人を、それぞれ情状証人に申請した[報道 7]。12月の公判で、木村は「被害者遺族の方の気持ちが少しでも晴れるなら、また、私の母や家族に対する世間の冷たい目が多少とも緩和されるなら、命が惜しいとは思いません。私が死刑になるのが一番いいのではないかと思います」と述べた[報道 8]。第9回公判では、被害者遺族であるA子の父親が、検察側の情状証人として出廷し、「親として絶対許すことはできません。死刑を望みます」と述べた[報道 7]。
1981年12月24日、名古屋地裁刑事第3部で第10回公判(論告求刑公判)が開かれた[報道 7]。検察側は「社会全体に戦いを挑んだ、わが国史上まれに見る、大胆、残忍、卑劣な犯行で、天人とも許しがたい。被告人の反社会的性格に改善の余地はない」として、木村に死刑を求刑した[報道 7]。弁護側の最終弁論は翌1982年(昭和57年)2月2日に開かれた[報道 7]。
1982年3月23日に判決公判が開かれ、名古屋地裁刑事第3部(塩見秀則裁判長)は検察側の求刑通り、木村に死刑判決を言い渡した[報道 9][報道 3][判決文 1]。
木村は判決後も、前述のように死刑を受け入れる意思が固かったが、弁護人らが控訴するように説得した[報道 8]。その後、木村の弁護人は控訴期限前日の4月5日付で、量刑不当を理由に名古屋高等裁判所に控訴した[報道 8]。
控訴審(名古屋高裁)
1982年10月18日、名古屋高等裁判所で控訴審初公判が開かれた[報道 10]。控訴審でも、木村は起訴事実を全面的に認めたため、控訴審はわずか3カ月で結審した[報道 10][報道 11]。第一審も10カ月のスピード審理だったため、事実審はわずか1年弱で結審した[報道 11]。
控訴審で弁護側は「木村は逮捕後、率直に犯行を認め、拘置所内でも毎日、被害者の冥福を祈るなど、深く反省している。永山則夫連続射殺事件など、他の重罪事件でも、控訴審で死刑判決が破棄されて無期懲役になった例があり、刑の均衡の上から、死刑判決を破棄して無期懲役を適用するのが相当である」と主張していた[報道 11]。
1983年(昭和58年)1月26日、名古屋高裁刑事第2部(村上悦雄裁判長)は、第一審の死刑判決を支持し、木村の控訴を棄却する判決を言い渡した[報道 10]
[報道 11]。
木村は判決を不服として、同日午後に最高裁判所に上告した[報道 12]。弁護人は判決後、名古屋拘置所で木村と面会し、「控訴審判決は死刑制度の適否などについて判断しておらず、弁護人としては不服である。量刑について最高裁が同じ判断を示すとは限らず、人生を最後まで大切にする意味でも上告すべきだ」と説得し、木村はこれに同意した[報道 12]。
上告審(最高裁)
1987年(昭和62年)6月26日までに、最高裁判所第一小法廷(大内恒夫裁判長)は、木村への上告審判決公判を7月9日午前10時半から開廷することを指定し、関係者に通知した[報道 13]。
7月9日、最高裁第一小法廷(大内恒夫裁判長)は、一・二審の死刑判決を支持し、木村の上告を棄却する判決を言い渡した[報道 4]。これにより、木村の死刑判決が確定することとなった[報道 4]。
木村とその弁護団はこの判決を不服として、本来は字句・計算の間違いなどを訂正するのに用いる判決訂正申立書を[注釈 1]、犯行の事実認定のうち、情状に関する事実誤認・死刑制度の是非について、これまでと同じ主張をまとめた上で、最高裁第一小法廷(大内恒夫裁判長)に提出し、死刑判決の破棄を訴えた[報道 5]。しかしこの申し立ては8月6日までに棄却決定がなされたため、木村の死刑判決が確定した[報道 5]。身代金目的誘拐殺人での死刑判決確定は戦後8件目だった。